1853年7月、ロシアはトルコの宗主権の下で自治を認められていたモルドバ、ワラキア(現在のモルドヴァとルーマニアの一部)に進軍。あくまでも解放を目的としていたことからロシア側は宣戦布告なしにおこなったが、戦闘になることを回避したいトルコ側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三にわたって撤退勧告を繰り返した。しかし、9月に最後通牒も無視されたことからトルコ軍は10月に宣戦布告なしにドナウを渡河してブカレスト郊外の数箇所の前哨拠点を攻撃したことがきっかけに開戦となった。
装備の上で勝っていたロシア軍は砲兵部隊をドナウ河岸に集中させてトルコ軍の河川艦隊を破ると、勢力を盛り返してドナウを越えて南下した。さらにギリシャの義勇兵が北上し手薄になっていたオスマン帝国領内のマケドニアやブルガリアでロシアの援助を受けた反トルコ組織が叛乱を煽動したため、トルコ軍はバルカン半島で挟撃されるかたちに追い込まれた。この状況に慌てたイギリスとフランスはギリシャに撤退を求めるが、中央政府の権威が大きくないギリシャでは戦線に身を投じる義勇兵が後を絶たなかった。
ついにフランスは巡洋艦を派遣してギリシャ義勇兵への武器を積んだ輸送船をテッサロニキで撃沈し、イギリスもアテネの港湾・ピレウスを封鎖して圧力をかけたためギリシャは義勇兵の援助を打ち切らざるをえなくなった。これにより反トルコを掲げた叛乱は各地で鎮圧され、特にロシアが力を注いだブルガリアの反対派組織は徹底的な弾圧を受けて壊滅に至り、再び盛り返したトルコ軍がロシア軍をドナウ以北にまで押し戻すが、両軍ともに決定力に欠いたため戦線は膠着状態に陥った。
クリミアでの戦闘とイギリス首相の交代
ロシアの要求の過大さに不満と懸念を抱いたフランスとイギリスだったが、本格的に参戦するつもりはなかった。ところが、1853年11月、黒海南岸の港湾都市・シノープで停泊中だったトルコ艦隊が少数のロシア黒海艦隊に奇襲され、艦船のみならず港湾施設まで徹底的に破壊されるというシノープの海戦が起きたため状況は一変した。
これはロシア黒海艦隊の偵察に気づいていながらイスタンブルに援軍を要請する以外に何も行わなかったトルコ側の明らかなミスだったが、あまりにも一方的な攻撃だったため各国のメディアはこれを”シノープの虐殺”と報道。これによりイギリスでは世論が急速に対ロシア強硬論へと傾き、フランスとともにトルコと同盟を結んで1854年3月28日、ロシアに宣戦布告した。イギリスがヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成したのはナポレオンから第一次世界大戦までの百年の間でこの一度だけだった。
当初、同盟軍は軍隊を黒海西岸のヴァルナ(現在のブルガリア東部)に上陸させてオデッサの攻略を目指したが、突如としてオーストリアが国境線に部隊を配置して同盟軍のバルカン山脈以北への進軍を阻止したため、攻撃目標はロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島の要衝・セバストポリへ変更を余儀なくされた。
しかし、主力のイギリス・フランス軍ともに現地の事情に疎く、クリミア半島に部隊を移動させた直後から現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため停泊中の艦隊が嵐に巻き込まれて戦う前からその大半を失っていた(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになる)。
ロシア軍は指揮の面で不備が多くアルマの戦いでは地の利があるにもかかわらず実戦経験豊富なフランス外人部隊と戦闘犬を擁するスコットランド連隊の前に敗れてセバストポリへの進軍を許してしまい、同盟軍は情報の重要性に気を配らなかったことからフランス語の堪能なロシア人士官が化けたニセ指揮官たちによる攪乱工作によりバラクラヴァの戦いやインカーマンの戦いでは辛うじてロシア軍を退けるも被害が著しく、セバストポリを前にして立ち往生する羽目になった。ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化したため、同盟軍は塹壕を掘って包囲戦を展開する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガスではないかといわれている)まで使用したが、予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回り、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ムードが漂っていた。最終的に、サルデーニャ王国がピエモンテに駐屯する精鋭15000人を派遣して同盟軍に与したことにより街は3日に及ぶ総攻撃の末にナヒーモフもコルニーロフも戦死し、1854年9月28日から始まったセバストポリの攻囲戦は1855年9月11日に陥落を見て決着した。 しかし、この時点で既にイギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻し、アバディーン内閣は国民の支持を失う。政権を支える下院指導役のジョン・ラセッル卿の辞任が引き金となって内閣は総辞職。外相時代に辣腕外交ぶりを発揮していたパーマストン内相があとを継いでいた。
終戦へ [編集]
また、セバストポリ陥落直後にザカフカースの要衝・カルス要塞がロシア軍の前に降伏したことから事実上の戦勝国はなくなった。パーマストン首相はもう少し戦争を継続してイギリスに有利な状況で終わらせたかったが、フランスのナポレオン3世が世論をうけてこれ以上の戦闘を望まなかった。フランスの陸軍を頼りにしていたイギリスは、単独ではロシアと戦えなかった。結局両陣営はともにこれ以上の戦闘継続は困難と判断した。
時を同じくしてロシアではニコライ1世が死去し、新たに即位したアレクサンドル2世はかつてのオスマン帝国の全権であり、ロシア軍の総司令官であるメンシコフを罷免。こうして同盟国側と和平交渉が進められていた。もっとも、明確な戦勝国のない状況で始められたパリでの講和会議は、戦争終結に貢献したということで発言権を増したサルデーニャ王国のカミッロ・カヴールのロビイ活動によりハプスブルグ批判に終始し、結局は大まかなところで戦前の大国間の立場を再確認するにとどまり、開戦当初に掲げられたポーランドの解放やバルカン諸国の安全保障などは完全に無視された。
こうして1856年3月30日にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いのもとでパリ条約が成立した。多くの歴史学者が認めているようにこの戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験してないロシアの国力の差が歴然と証明された。建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとってもロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていたのである。
バルト海での戦闘 [編集]
クリミアでの戦闘は北欧においても転換期となった。スウェーデンはロシアからのフィンランド奪回の意図を講じ、参戦を計画した。これはナポレオン戦争以後のスウェーデンの武装中立主義を覆すものだった。イギリス、フランスもスウェーデンの政策を支持し、バルト海に艦隊を派遣した。1854年に英仏艦隊はバルト海に侵攻し、フィンランド沿岸を制圧する。
しかしスウェーデン議会は戦争への介入に消極的で、当初は中立を宣言した。しかしこの中立は英仏にとって有益なものとなり、スウェーデン領であるゴットランドの海港を軍事基地として利用することが出来た。英仏艦隊は、フィンランド領となっていたオーランド諸島に迫っていたため、フランスよりオーランド諸島の占領をスウェーデンに打診したが、スウェーデン王オスカル1世は、ロシアが機雷を使用したことを憂慮し、慎重な姿勢を取ったため、オーランド諸島奪回の好機は失われてしまった。1855年に入るとクリミアでの戦闘がロシアの敗色濃厚となるとスウェーデンは、直接参戦の意思を露にする。
しかしスウェーデンの参戦は時機を逸していた。セバストポリの陥落とスウェーデンの参戦は、ロシアに和平を促すきっかけとなり、英仏艦隊は、バルト海から撤退した。結局スウェーデンは何の利益を得るところも無く戦争は終結した。なお、スウェーデン人が主体を占めるオーランド諸島は、この後非武装地帯とすることで合意を得たが、フィンランド独立後に帰属問題で揺れ、結局1921年にフィンランドの自治領になることが決定された。
太平洋での戦闘と日本への影響 [編集]
太平洋側のロシア極東にも戦争は波及した。フランス海軍とイギリス海軍の連合は1854年8月末、カムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略を目論んだ。英仏連合軍は盛んに砲撃を行い、同年9月に上陸したが陸戦で大きな犠牲を出し撤退した。英仏連合は兵力を増援したが、ロシアの守備隊は1855年の初頭に雪の中を脱出した。
この戦いではエフィム・プチャーチン総督がペトロパブロフスクの防衛にあたっていた。プチャーチンは日露和親条約を結ぶためアフリカ航路で日本へ向かっていた。途中、イギリスのプリマス港に停留。その時に英仏がロシアに宣戦布告していることを知り、すぐさま出航、セントヘレナ島・ケープタウン・セイロンなどで停留後、中立国であるスペイン領マニラ港に到着。そこで折悪くフランス海軍と遭遇したため急いで長崎港に行き、日露和親条約を締結している。 クリミア戦争は、直接的ではないが日本にも大きな影響を及ぼした。アメリカだけがこの時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交をできたのは、この戦争によって欧州列強が日本を含めた東アジア地域にまで関心が及ばなかったからである。 なおこの戦争でフランスでは、政府の命令をうけてパリの天文台台長のルヴェリエという学者が暴風雨の研究を行いこれが今日の天気予報という学問のジャンルの起源になった。
戦争に関わった人物 [編集]
アルフレッド・ノーベル - 発明家。ロシア軍の機雷設置請負業で財を成した
アッバース・ヒルミー - エジプト総督。ムハンマド・アリーの孫でトルコ側に立って参戦
アントワーヌ=アンリ・ジョミニ - スイス人軍学者。開戦当時のロシアの軍事顧問
ジェームズ・スターリング - 英国海軍軍人。極東のロシア艦隊を攻撃するため来日し、江戸幕府にヴィクトリア女王の親書を渡す
フェルディナン・レセップス - トルコ側について参戦したために混乱したエジプトからスエズ運河の建設権を取得
ハインリッヒ・シュリーマン - 戦争のための補給物資を扱い、財を成す。その金を元にトロイ発掘を行う
パトリス・マクマオン - フランス外人部隊指揮官として参戦。後のフランス第三共和政の下で大統領を務める
フローレンス・ナイチンゲール - 看護婦として従軍。英国野戦病院で看護活動、「クリミアの天使」とも呼ばれた。
レフ・トルストイ - 将校として従軍。セバストポリ要塞の戦いに参加。従軍した体験を元に小説セバストポリ物語を執筆して国家的栄誉を得る。
エフィム・プチャーチン - ロシア海軍軍人。幕末に条約締結のため来日。
吉田松陰 - 幕末の思想家。長崎からの密航を計画したが、開戦によりロシア艦が予定より早く引き上げたため失敗して投獄
マイケル・ファラデー - イギリス人化学者。英国政府から化学兵器の作製を依頼されるが、拒否
アドルフ・エリク・ノルデンショルド - 学者、探検家。フィンランド大公国から追放されたが、1879年、地理学に名を残す北東航路の制覇を達成した
パーヴェル・ナヒーモフ - ロシア海軍司令官
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